③「外来種は本当に悪者か?」の巻末解説の解説を巻末解説者にしてもらった
巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。
巻末解説
著者ピアスの筆は、そんな落としどころをおさえつつ、外来種だけでみごとな安定性をしめす生態系が実在すること、外来種の介入があればこそ豊かな生物多様性・生体機能を発揮する在来・外来生物の混合生態系(=新しい野生)が存在すること、特定の外来種が生態系攪乱・破壊の元凶とされるさまざまな事例において外来種は実は犯人ではなく、人間による汚染などの環境破壊に局所・局時的に対応しただけの存在であることなどを、読みつかれてしまうほどの執拗さで事例をあげ、解説しているのである。
そんな吟味をとおしてピアスが紹介する、新しい生態理解、厳密極まる共進化の産物としてあたかも超個体のように形成される、あるべき自然という中世的な自然理解に対抗する新理論は、種をもっと自由で、主体的な存在と見る、グリーソンやジャンゼンに代表されるような、個体主義的な種の理解、生物群集の理解である。いま、目の前で、「手付かずの自然」とみえる生物群集を構成している種は、長大な進化の歴史をその場所で共有し、共進化してきた存在ではなく、もしかしたら、さほど遠くない過去において、自然のさまざまな偶然、あるいは人為によってその場所に到着した、外来種同志かもしれない。そんな外来者が、いまそこで偶然うまく相互適応(生態的調整)しているだけなのかもしれない。いや、実はそのようなケースが、 むしろ普通なのかもしれないという、理解なのだ。
この理解からすれば、全ての種は、なんらかの特定の生物共同体の一員としてはじめて適応的な存在なのではなく、それぞれの種に固有の歴史や都合、いわば主体性において適応的な存在なのであり、何らかの程度に常に「在来」そして「外来」生物なのだということになる。保全生物学にとって、この理解が革命的でないわけがないのである。ピアスは、このような理解のもとに新しい生態学をすすめ、自然保護をすすめている世界の研究者たちの現状を、有能なジャーナリストとして取材し、報告する。
巻末解説者の解説
岸先生’s 解説 ④
よく使われる言葉が、生息地を生態系とイコールにする考え方です。本来の生態系に他の種が入ってくると外来種という議論です。そうなると、本来の生態系とは何なのか?生態系の範囲とは何なのか?生態系の範囲とは、自然の区域で決まるという説もあるし、まだ定まっていません。
仮に、生態系という空間があり、生息地=生態系とするなら、生息地は種ごとにずれていって、それがまだら模様に重なり合っているはずです。そこを人間が空間を切り取って生態系と定義しても、それは人間が勝手に決めた基準であり、そこには様々な種が出入りして、そこだけで完結する生態系はありません。
そこで、根本的に考えると、すべての生物は適応する場所に移動し存在する範囲=生息地は動き続けます。つまり、すべての生物は外来生物であり、在来生物と言うことになるのです。言い換えると、すべての生物は移動を繰り返すので、移動を繰り返す中である一定の空間を基準とすると、その空間にいずれの種も出入りするため外来であり、在来であるのです。
岸先生’s 解説 ⑤
分布境界線や生物地理区というものが昔からあります。しかし、地球温暖化などによって、南にいた生物が生物地理区や分布境界線を平気で超えて移動します。これまでは、それぞれの生息地の中だけでずっと生きものは世代を交代するという考え方が主流でしたが、それは本当でしょうか。生きものは適応できる範囲が増えたら、その環境に適応するように生息地を拡大させるということは当然ではないでしょうか。すなわち、生息地は絶えず縮小、拡大し、同じということは無いのです。
南方系のアゲハチョウと柑橘系の植物の関係はなかなか切れないけど、北方系のキアゲハとセリ科の植物の関係もなかなか切れない。けれど、南方系のアゲハチョウと北方系キアゲハが両方いる山のすべての種が何万年もの共進化を通して、相互適応しているというのは考えにくい。たまたま、北方系と南方系の分布が重なっただけと考える方が自然ではないでしょうか。それぞれの進化の歴史を背負ってたまたま分布が重なりあったところにいる様子を空間的に切り取って群集としているだけと思うの考え方の方が妥当であると思うんです。
岸先生’s 解説 ⑥
言い換えて例で説明してみると、ある池があって、そこに様々な種類の生きものがいます。それは、過去10万年前からお互いに共生して暮らしてきた、という理解もできますよね?
だから、大事だな、守らないとと思っちゃう人もいる。でもよく調べて見ると、そこにいるゲンゴロウは昔にはいなくて、偶然、100年前に池に来て、魚は二十年前に、人間によって連れてこられて・・・結果的にうまく折り合いをつけて生物同士が暮らしているだけということも考えられるでしょ。その様に、本来生物の群集というもの様々な偶然によるものではないのかという考え方もあると思っています。生態学的にはどっちがいいかというと、おそらく後者の方ではないかと僕は思っています。
巻末解説者のメモ
Memo〜主体性と系統的束縛〜
ここで言う主体性とはクジラは海にいるけど、鰓呼吸できない。というように、ある種がもっている頑固な性質を主体性として言うことにする。例えば、メダカは洪水で海まで流されても死なないように、塩分に耐性を持っている。山奥のため池に隔離されたといっても塩分耐性は変わらない。これをメダカの主体性と僕は言うことにする。メダカはこういう主体性を持った種なんです。つまり、すべての種は独自の進化の中で生き延びてきたことで、それぞれの主体性、適応能力を持っているんです。だから、池にいるメダカがその環境だけで単純に進化してきたと考えるほうがおかしいというわけです。 クジラの例のように生物は種ごとに進化の歴史、適応の歴史、系統の歴史があり、それぞれの特性をもって暮らしている。それを系統的束縛と言います。その系統的束縛の中でしか変異ができない、その中から適応的なものが選ばれるということになります。しかし、メダカの例のように大事なのは生息している場所で自分の能力を全部使って暮らしているのではなく、使わない能力も持っている。だから、使わない能力が必要な環境になったときに、その能力を使い、生き延びるということ。だから、今ある環境だけでどう適応していくのかを考えるでは厳しいということ。
巻末解説者
0コメント