外来種が悪いとか 悪くないとかを越えて


私たちが吸い込んでいる空気には1750年の吸気に比べて36%も多い二酸化炭素が含まれていて、地球規模で気候が変動する現代、すでに戻すべき過去の自然というものは地球上どこを探してもないのではないでしょうか。


 地球温暖化による地球規模の環境改変によって、手つかずの自然などは地球上に存在しないというものです。 自然とは常に変化しつづけます。


その理解を大前提とすると、今も自然は変化し続け、同じ自然は再び現れないのです。それを無視して、過去の自然へ戻すために多額の資金を投じたとしても、それは正真正銘過去の自然ではないのです。 


「手つかずの自然が存在しない地球、守るものはもう無いのか、、、」と落胆する人もいるでしょう。


しかし、手つかずの自然=自然ではなく、人の手が入った自然も、外来種がいる自然もすべてふくめて、自然であると、イメージを少し変えてみると、皆さんが日々暮らす足もとから自然があふれてきます。


 例えば、身近な川でしたたかに生きる魚に目を向けてみると、初夏に大阪湾からたくさんのアユが大和川をのぼって石川流域までやってきます。

絶滅が危惧されているカワバタモロコという魚も学校や幼稚園のビオトープ、個人の家の庭先の池、お寺の庭園池などでしたたかに命をつないでいます。 


ザリガニがたくさんすむため池に残されたカワバタモロコやメダカ、外来植物のセイバンモロコシがはびこる河原で懸命に生きるカヤネズミ、

畑のニンジンで一生懸命生きるキアゲハの幼虫、

住宅の庭先に飛んでくるクマゼミなど、

それらすべて自然という事になり、都市に住もうが、田舎に住もうが、どこでも足もとから自然が広がります。  

今までの自然環境保護は過去の安定した自然を回復目標として、そこを目指すことが善とされていたような気がします。しかし、それが本当に善なのでしょうか。 


具体的にイメージしてください。皆さんの住んでいる家の庭で自然回復をおこないます。どのような自然が戻すべき過去の自然なのでしょうか。

そして、その自然へ戻すためにどれほど多額の資金と時間が必要でしょうか。 本当に過去の自然は安定していたのでしょうか。 そして、過去の自然に本当に戻すことができるのでしょうか。


失われつつある自然を守るだけでなく、その場所その場所を利用する多くの人がこの場所の自然の目的・目標を共有し、自然を増やしたり、つくり出したりすることにも価値を見出すことができる。


このような考えをもとにすると、どこでだって、誰だって自然保護はできるようになります。自然保護は素人が関われない難しいものではありません。


そして、新しい生態系がどのような振る舞いを見せるのか、新しい生態系をしっかりと調査し、追跡する研究が大事となるのではないでしょうか。


つまり、人がこの地域にどのような自然をつくり、どう活用し、どのような価値を持たせるのかある程度計画し進めていくことが重要になります。 


近頃、ため池の水を全部抜いて・・・などのTV番組が人気を博しています。

そんなテレビを見ていると、「コイは外来種!」「ゲンゴロウブナも外来種!」などという言葉が出てきて、オオクチバスやアリゲーターガーなどと同じような扱いで取り上げられています。


そんな様子に少し疑問を持っている人も少なくはないのではないでしょうか。 「コイも悪いやつだから、川にいたらダメ!」「見つけたら駆除しないと!」と思っている幼い子どもも少なくはないのではないでしょうか。 


この展示でも紹介したように、外来種は私達の身の回りに沢山いるのです。 

それら外来種をすべて一律に理解していることはありませんか?

 外来生物法で規制されている「オオクチバス」と規制されていない「ゲンゴロウブナ」「コイ」を同じように扱って良いのでしょうか。 


みんなで考えよう!

 世間で聞く外来種とは法律にのっていないものも外来種としてあつかっています。 その法律に記載されていないものをどう扱うのか、そこは皆さんで考えないといけない領域です。 特定外来生物の考え方が広まり、外来種は何でもかんでも「悪」だと言う人が現れたりする現代、本当にそのままで良いのでしょうか。


「外来種が悪い・悪くない」という二者択一の問い方ではなく、
 第三のアイデアを・・・ 


わたしたちは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」

じゃなくて、いったいどのように考えていけばいいのでしょうか。 

考え方はシンプルです。 あちらもこちらもできるだけ納得できる、

第三のアイデアを考えてみようということです。あっけないほどに単純です。でも、このことを十分に自覚していることが、とてもたいせつなことなのです 。 


 「外来種が悪いとか・悪くないとか」を超えて・・・


 外来種がたくさん入った自然はもはや自然ではない、

外来種は悪いから見つけたら駆除すべき・・・

外来種と在来種との間の雑種は野生化させることは望ましくない。  

そのような、従来の自然保護では「当たり前」と疑問符を突きつける本の出版が近年続きます。「自然という幻想」「外来種は本当に悪者か?」「なぜ私達は外来種を受け入れる必要があるのか」「外来種のウソ・ホントを科学する」などなどです。 


「外来種が悪い・悪くない」という問い方のマジックと一般化のワナを超えて、その場その場の状況にフィットした第三のアイデアを考えるべきときではないでしょうか。 

ここからはそれら本の翻訳や解説を多く担当されている進化生態学者で慶應義塾大学名誉教授の岸由二さんへのインタビュー等をもとに、未来の自然回復ビジョン・外来種をどう理解し、評価するのか、そして、自然回復と教育の重要性についてみなさんと一緒に考えていきましょう。 


▼一般化のワナに引っかからない 

「一般化のワナ」とは何でしょうか?

苫野一徳さんは以下のような例をあげて説明しています。 

「凶悪な少年犯罪の報道を、みなさんも目にしたことがあると思います。一〇代の少年たちによる、バラバラ殺人事件、バスジャック事件、一家殺害事件など、目を覆いたくなるような事件がつづいてきました。こうした事件が起こるたびに、みなさんはこんな言言葉を耳にしはしなかったでしょうか? 「最近の子どもたちはどんどん凶暴化してる……」 「近ごろの若者は何をしでかすかわからない..……」




 わずか数例の事件を聞いただけで 「最近の子どもたち一般」を語る、まさに「一般化のワナ」です。 


データがはっきり示していますが、実は少年犯罪の数は、この二、三〇年ほとんど「変わっていないのです。少年による凶悪犯罪の数もまた、ほとんど変わっていません。

むしろ、1950〜1960年に比べると、少年犯罪は減少してさえいるのが実態です。 「増えたのは、実は少年犯罪 についての報道の量なのです。こちらは間違いなく大幅に増えました。それに、かつてはテレビやラジオ、新聞くらいしかニュースにふれる機会はなかったけれど、今ではインターネット上にさまざまな情報が飛び交っているから、わたしたちが日ごろふれる情報量は格段階に増えています。そんな中、一年に何度か少年たちの凶悪犯罪の報道 にふれると、わたしたちは、それが「少年一般」の傾向であるかのように勘違いしてしまいます。まさに「一般化のワナ」に陥ってしまうのです。」 



Point 一般化のワナとは自分だけの限られた経験や情報を他のモノやコトにもあてはめ、一般化してしまう傾向にあることに気づく 

「外来種が悪い・悪くない」という 二者択一の問い方をやめてみる 


▼二者択一のワナ・問い方のマジックに引っかからない 

外来種について考える前に一つ、前提としておさえておくべきものを紹介します。

哲学の世界で有名な考え方ですが、熊本大学准教授の苫野一徳さんは「問い方のマジック」にひっかからないようと言っておられます。


「問い方のマジック」とは何でしょう? 良い・悪いなどの二者択一でどちらかが正解であると思わせるような問い方です。


「1+1=2と、1+1= 3、どちらが正しいか」という問いであれば、それは問うまでもないことです。正解が明確にありそうな問いと白黒つけがたい問いがあることをまずは理解しましょう。


 ちなみに、こうした究極的な選択の是非を問う問題は、わたしたちの身近でもよく出会うものです。こうした問題は、ある状況を設定したうえで「正しいか、正しくないか?」と問うことで、人の行為には、いついかなる時も絶対に正しい選択=答えがあるかのように人を錯覚させてしまいます。


そして、その場その場に応じて柔軟に行動するというしなやかな発想を奪ってしまうのです。 私達が白黒つけがたい問いと出会った場合、それが白黒どちらであるかを、絶対的に決定してしまうわけにはいかないはずなのです。 


つまり、「あちらとこちら、どちらが正しいか」と問うことをまずやめようということです。  


例をあげて説明しましょう。

苫野一徳さんの著書「勉強するのはなんのため?」には以下のように紹介されています。

 「学校の勉強は、実生活を送るうえで役に立つか、それとも立たないか?」 …

さて、みなさんはどう思うでしょうか? 「なんで勉強なんかしなきゃいけないんだろう?」という問い方を「学校の勉強は、実生活を送るうえで役に立つか、それとも立たないか?」に変えて問うてみました。 これが、わたしの言葉でいう「問い方のマジック」です。つまり、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」という、二者択一問題のことです。学校の勉強 は、実生活で役に立つか、それとも立たないか。そう問われると、わたしたちは思わず、どちらかが正しいんじゃないかと思ってしまいはしないでしょうか?でも、この問いはどちらかが絶対に正しくて、どちらかが絶対に間違っているというような問いではありません。実生活で役に立つものもあれば、あんまり立たないものもある。というより、それは人によって違うから、まさに「一般化」できない問題なのです。」 (「勉強するのは何のため? 」日本評論社)   

問いについて「正しいのか?それとも正しくないのか?」と考えてしまった人は多いんじゃないでしょうか。


 わたしたちはこの間いに対して「絶対に正しい、あるいは絶対に正しくない」という答えは実はできないはずです。 


なぜならその場その場で状況が違うからです。


哲学者で教育者である苫野一徳さんは著書「勉強するのはなんのため?」で以下のように解説します。 

「もしもボートにものすごく冷酷な男が乗っていて、目にとまったある女性をいきなり海に突き落としたとしたらどうでしょう? この場合、男の行為は(それによって残り一〇人が助かることを考えると)、「絶対に正楽しくない」とはいえないにしても、かなり問題のある行為だと多くの人は感じるでしょう。 しかし一方で、もしもそのボートの中にとても正義感にあふれた人がいて、一〇人を救うためみずから海に身を投げたとしたらどうでしょう?この場合、その人の行為は(残された家族のことやそれ以外の選択肢もあったかもしれないことを考えると)、「絶対に正しい」とはいえないにしても、すごく「立派な」行為だと多くの人は感じるでしょう。」 


外来種が悪い・悪くないという二者択一の質問ではなく、私達は外来種とどう向き合っていけばよいのでしょうか?

考えていきましょう!


巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 




巻末解説 

この星に暮らす地球人たちが、特定の教条にしばられずに多自然世界を学びなおし、相互に議論をしながら選択してゆけばよいと、マリスは確信しているのだろう。目標設定の手掛かりとして最終章に紹介される7つの目安は、実践的なナチュラリストたちにとって、技術的アドバイスをはるかに超えるユニークで有用な指針となっている。 私事で恐縮だが、ここで解説を書く私は、1970〜1980年代、ドーキンスなどが開いた進化生態学の専門研究の流れに属し、日々数理モデルと格闘する研究者時代を過ごしてきた。他方では、1960年代後半の学生時代から都市の防災・自然保護の領域に強い関心があり、アカデミックキャリアの外の思索・実践の時間は、ほぼすべてを都市河川や丘陵や海岸の保全運動に費やした。三浦半島小網代の森、鶴見川の流域、そして勤務先でもあった慶應義塾大学日吉キャンパスの雑木 林等々で、防災、活用、生物多様性保全など、多元的な目標を設定した環境保全活動をつづけてきた経緯がある。

  そんな暮らしの中で、都市化、温暖化にさらされる足元の自然をどのようなヴィジョン、理論、 技術で保全してゆくか、日々の思索・実践を折々の著書にも記してきた。励ましになったのは、英語圏における非主流の研究者や市民集団の実践だった。そんな模索の途上、大きな変化がおこりはじめたことを鮮明に知らせてくれたのが本書の著者、エマ・マリスだった。驚くのは、著者マリスが呼びかける自然イメージの転換、新しい自然保護の方向が、1960年代以後の試行錯誤の実践で積み上げた私の理解と、実に相性がよいことだった。温暖化、地球規模の都市化時代の自然保護の課題は、世界共通。だから対応もまた同じ構造になると、いま私は明快に理解することができる。

  問題はそんな新たな主張を展開するマリスの本書が、日本の読者、ナチュラリストの現場にどう 受け止められるかということだろう。日本の自然保護の領域には、回復主義の頑固な教条が残る一方、「里山」という不思議な生態系への憧憬が広く共有されている。一般市民の間では、自然保護=里山保全という理解もまれではない。私自身は「里山」よりも「流域」を生態系の基本枠組として多元的な保全を目指しているので、この言葉はあまり使用しない。それでも、もし「里山」という言葉が小流域生態系を基本枠組とした水田・雑木林農業のような世界を主として示唆するのだとしたら、そこはマリスの唱導する新しい自然保護を日本列島に広げる、絶好の拠点となってゆく可能性ありと、いま私は考えるようになった。

  稲作とともにある里山は、弥生時代の昔、祖先たちが列島にイネという外来植物と、連動する 様々な外来生物を移入し、在来生態系を大改変(破壊?)して、いわば革命的につくりあげた外来生態系、多自然農業生態系だ。その里山の歴史や現状から、幻想なしに素直に学べば、日本国の未来の自然保護は一から十までマリスの主張に合致してゆくはずと、私は直感するのである。時事の話題でいえば、稲作型の外来生態系構築のために設置された「ため池」という外来型水界を対象として、いまそこに侵入している外来種を、ただ外来種だという理由で排除する興奮など、里山多自然革命の歴史にふさわしいものとは、決して言えないことは確かだろう。マリス風に言い切ってしまえば、100年、500年未来の日本列島の里山生態系には、21世紀初頭において「悪者」とされた外来生物が、穏やかに優しく共存を許され、保護される「ため池」が各所にあって良いからである。 おしまいにマリスの自然保護論の理屈っぽい部分にもふれておく。マリスの推奨する自然保護戦 略はランドスケープエコロジーを下敷きにしている。自律的な変遷を尊重される大きな自然領域(自然保護区)がコアにあり、そのまわりに人々の多彩な希望に沿って多様な保全・活用をうけるパッチ(比較的小さな土地)があり、それらが帯状あるいは線状 の土地の連なりであるコリドー(回廊)のネットワークで 連結され、総体が人と自然の共存する賑やかな多自然ガー デンになってゆくというヴィジョンだ。「過去でなく未来 に視点を向け、目標を階層化し、景域〔landscape〕の管理 をすすめることこそ、〔未来の〕自然保全の要点」(第1章) というその主張は、ランドスケープエコロジーの基本そのもの と言ってよいものだろう。 重ねての私事で恐縮だが、実はここでまた私は、驚きの符合 を知ることになった。最終章でマリ スは、保全計画の階層化 の基本単位として、ハワイ諸島の人々が伝統的に活用してき た、溶岩流で形成される小流域構造ahupuaa(アフプアア) に注目し、「多自然ガーデンは、このアフプアアのヴィジョ ンを全地球大に敷衍するもの」(第10章)と言い切った。足 もとから、流域の階層構造を経て地球に広がってゆく生きも のの賑わいに満ちた山野河海こそが、私たちの暮らしの基盤 ・背景となる自然であり、流域思考によってその多元的な保全活用を図ってゆくことが21世紀の私たちの自然保護だという思考は、実は1996年の拙著(『自然へのまなざし』〔紀伊国屋書店〕)に記した、私の実践的な思索の結論でもある。希望を託す景域として、マリスも「流域」を視野にいれているのだ。 本書が自然好きのたくさんの日本の若者たちに届き、温暖化危機の列島に優しい自然保護、多自 然ガーデニングの文化が育ってゆきますように。


巻末解説者の解説 

POINT3

ここで大切となるのが何でもかんでも外来種は駆除するべきだというのは危険な考え方なんです。そうならないために、価値観や倫理観、哲学が大切になってくるのではないかと思っています。ただ、現状は遺伝子を調べて、在来・外来とわかれば、在来種以外を何も考えずに駆除してしまうことに繋がります。実際にため池の水を全部抜くテレビ番組では、外来種としてコイを駆除して、それを放送していました。コイのようなとても長い年月日本で暮らしていた種でも外来として駆除されてしまう 現状があります。 


解説4

ウリミバエのように、人間に極端な害をあたえる外来種に関しては不妊個体などを用いて駆除することは必要だとおもうけど、何でもかんでも外来種は悪で駆除スべきだというようになると恐ろしいことになると思います。 例えば、琵琶湖のコイは在来種で、日本の他の河川のコイは外来種だと判明しましたが、琵琶湖以外のコイを全部駆除しても良いという事になってくると、恐ろしいことになると思います。 


巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 



 巻末解説 

そんな「自然」を私たちはどう呼ぶのか。「新しい」生態系、「新しい」野生などという呼び方もあるが、マリスはさらに挑発的だ。局所的擬似的に「手つかずの自然」を模倣したものも含め、今や自然はすべて人の干渉・管理のもとにある「ガーデン(庭)」となった。在来種ばかりでなく多様多彩な外来種もそこには含まれる。自然をこのようにとらえれば、失われつつある自然を守るだけでなく、さまざまな目的・目標で自然を増やしたり、つくり出したりすることにも価値を見出すことができる。このような考えをもとに、私たちの暮らしとともにあるリアルな自然保護のあり方を、マリスはrambunctious garden(直訳すれば「ごちゃまぜの庭」)と呼び放つ。 訳者としてはこの言葉の訳が思案のしどころだった。本書ではこれを「多自然ガーデン」と訳す ことにした。「多自然」という表現は、日本国の河川整備の領域において、それぞれの土地の自然と調和した多様な河川計画のあり方を意味する「多自然(型)川づくり」という言葉で使用されてきた歴史があり、いまも広く使用されている。関連の行政の仕事も含めこの言葉に長く親しみ有用性を自覚してきた私も、日々愛用する表現であり、たぶんマリスの意図にもよく沿うはずの日本語と判断して、ここに採用するものである。この訳語に、一部の識者・活動家に反発のあることは承知だが、日本国雅楽の創始者の名前が多自然麿(おおのじぜまろ)と知れば、列島の日常の自然を愛する市民には、やがて良い日本語であると優しく理解されてゆくと思うのである。 では、多自然ガーデンは、どんな方法で自然保護をすすめるのだろう。残念ながら本書は技術や 理論の詳細を論じる書ではない。マリスは多彩な実践を紹介することで多様な選択肢を例示する方法をとる。ハワイでの在来植物保護の努力、原始の森と錯覚されるビアロウィエージャの森の生態系保全の現状、過去の生態系の大規模復元を目指すオランダの実験、外来種の大規模導入が新たな生態系を生み出したアセンション島の歴史、シアトル中心部ドゥワミッシュ川流域における産業・都市・自然共存の試み等々。旧来のヴィジョンに沿って苦悩の続く例も、新しい勇気ある実践も、読みごたえがある。 大小の事例を通して示唆されるのは、賑わう生きものに優しく、生態系サービスが機能し、過大 なコストをさけられるな  ら、自然保護の目標は多様でいいというヴィジョンであ る。代理種を利用して過去の生態系の模倣をめざす、温暖化の速度に適応できない種の管理移転をすすめる、在来種の厳正保全のために外来種を徹底的に排除する方式も局所的にはあっていい。 



巻末解説者の解説 

その2

多自然とは僕は、安全で魅力的で生物多様性が豊かな自然の新たな創出や管理を多自然としています。 

  

その3

基本的には過去の手つかずの自然を絶対視せずに、何でもありで考えたらいいじゃないかというものなんです。別の言い方で言うと、地球の温暖化や都市部の都市化は止まらないなら元の自然に戻すというのは現実的に不可能だから、変わっていくものに合わせて、生物多様性が豊かで、安全で、美しくて、生態系機能もしっかりとしているような自然を作っていくしかない。 例えば、国の制度として自然保護区を設けて、そこには外来種は全力で排除して維持できる限り、現状を維持していこうというのはそれはそれで良いこと。一方、大和川とか石川など都市部の自然で、外来種がいても在来種と外来種がごちゃまぜで暮らす安全で快適な自然を目指しても良いこと。つまり、手つかずの自然が偉いとかではないということなんですね。  


POINT 2

過去の手つかずの自然に戻すこと一択ではなく、それぞれの場所をどのような自然にしていきたいのかそれぞれの場所に関係する人々が合意形成し、選択していっていいじゃないか!ということなんですね。 言い換えると、100年前の自然を多額のお金をかけて戻しても良いし、外来種が中心的になって新しい世界をつくるというのもそれはそれでいいじゃないかというものなんですね。 どっちがすごいとか無いよということを言っているのですね。 


巻末解説者


巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 






  巻末解説

 世界の自然保護は、大論争と新しい希望の時代に入った感がある。人の暮らしから隔絶された 「手つかず」の自然、人の撹乱を受けなかったはずの過去の自然、「外来種」を徹底的に排除した自然生態系、そんな自然にこそ価値ありとし、その回復を自明の指針としてきた伝統的な理解に、改定をせまる多様な論議・実践が登場している。 

 ここ10年ほど、その新時代を展望する出版が英語圏で目立っている。一端は関連の翻訳書(ピア ス『外来種は本当に悪者か』〔草思社〕など)を通して我が国にも波及しているが、実は2011年に出版された本書の原書Rambunctious Garden: Saving Nature in a Post-Wild World (Bloomsbury)こそ、 新時代到来を告げた本だった。著者エマ・マリスは、ネイチャー誌をはじめとする専門誌を舞台に、崩壊する古い論議、新しい実践、そして新しい自然のヴィジョンを丹念な取材にもとづいて紹介し続ける、新時代の卓越した環境ライターだ。

  マリスによれば、見直しを迫られる過去の理論、思想、ヴィジョンは、イギリス生態学に起源をもつ「外来種」関連の分野をのぞけば、大半がアメリカ産だ。手つかずの自然への信仰を支える生態学的平衡理論として知られる「遷移理論」は、20世紀前半アメリカの生態学から生まれた。極相 群集のバランスを理想化したその理論は、間もなく学術的威信を喪失したが、主張の宗教的な核心は、自然保護の世界やその後の生態系生態学、数理生態学の一部にも引き継がれ、教育・啓発の現場をとおして現在まで影響力を保ってきた。それらも、温暖化による地球生態系の壮大な変化の時代を迎え、いま改めて批判と検証に直面している。また、森の聖者D・ソローの思索や、イエローストーン国立公園の歴史に見られるような「ウィルダネス」(人為を遮断した野生)への信仰も、19世紀アメリカの都市化の歴史に固有な自然賛美が生み出したものだ。

  そして今や、先史時代からの人類による自然攪乱の歴史が常識となり、また温暖化でもはや生態 系は不可逆的変化を続けるほかないと明らかになってきた。そんな現在においては、世界のはて、遠い過去に存在するはずの「手つかずの自然」への信仰、さらにはそんな自然を回復することこそ 自然保護の王道とする主張は、理論的にも実践的にも困難になったとマリスはいう。「外来種」の危機を一方的にあおる主張についても、理論的・実証的根拠が盤石でないことをしめす事例が丹念に紹介されるのも、当然の展開である。

  しかしマリスがもっとも重視するのは、精緻な理論や研究ではなく、「価値ある自然」「保護されるべき自然」と人々が了解する領域をめぐるヴィジョンの転換である。 「手つかずの自然」にこそ価値ありとされた伝統的なヴィジョンの 中の「自然」は、今となっては「幻想」だと自覚せざるを得なく なった。私たちが注目するべきは、町の一角の草地、都市河川の 川辺の工業地域の緑、農地や再生のすすむ森等々、人々の日々の 暮らしの背景にある自然だ。そこから地球に広がってゆく大地そ のものなのだ。そこから新しい自然保護ははじまると、判然と理解 するゲシュタルト的な転換をこそ、マリスは呼びかけているので ある。  



巻末解説者の解説

POINT 1

つまり、今までの自然への価値観=遠くの手つかずの自然がありがたい!と思っていたものが、工業地帯の脇の外来種だらけのくさっぱらも自然だと思うと、一気に自分の 中の自然観が変わりますよね。マリスはこれを伝えたくて、TEDなどでも同じような意見を言っていますね。


解説その1

ゲシュタルト的な転換とは、物事が根本から変わること、例えば、自分が普段見えている視野の中に、自分の鼻は見えていない。しかし、自分の鼻はいつも見えている。つまり、人は自分の鼻 が見えているが、見えていないということにして普段生活をしている。しかし、自分の鼻が見えているということを意識すると、常に鼻が見え、今までは見えなかったことにしていることに気づく。だまし絵などで見方を変えると、一気に見え方が変わってくるということも同じ。 



 



巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 




巻末解説

  ここで、ピアスの著書を批評している筆者も、あえて派閥をいうなら、中世全体主義派ではなく、ドーキンス的な生物種のイメージとも整合する現代個体主義派と宣言しておくことにしてもよい。さまざまな政治イデオロギーも絡むかたちで、なにやら極限的な中世全体主義的自然論の横行する日本国保全生態学の領域にあって、もう理論的なやりとりはあきらめ、ひたすら実践世界において、新しい生態学の理解で地域の自然保護をすすめたいと心に決めていた筆者にとって、本書の登場は(理論的な整理に異論反論は多々ありとしても)、老いて曇天にまぶしい日差し、の ような爽快でもある。  ちなみにいえば、新しい生態理解、種の理解を、「それぞれの種に固有の......主体性において適応的な存在」とあえて上に記したのは、もちろん、今西錦司を意識してのことである。日本の生態学の系譜でいうと、筆者は、種社会の主体性を主張した、偉大なナチュラリスト、今西錦司の、勝手連的な無縁の弟子と自己規定しているからである。 1940年代、日本の今西錦司は、当時、全体論的中世的な生物群集論をひっさげてアメリカ生態学を席巻していたクレメンツ流の全体論的自然像を批判して、種の主体性を基本とする、すみわけ論という壮大な生態学的自然像の創出にかけていた。その工夫が健やかに進み、のちの今西進化論とよばれる全体論によって頓挫せずにいたら、世界の現代生態学の基本は、日本国すみわけ論の生態学から育ちあがっていたかもしれないと、筆者は本気で考えている。全体論に復帰してしまった今西すみわけ論を無念としつつ、種の現代的な理解にもとづく自然保護をこころざしていま本書にあえたこと、まさに奇遇と感じているところなのだ。 さて、稚拙な批評のしめくくりに、本書の主題に合うはずの日本生態学自然保護論にかかわるエピソードをひとつ、筆者の足元での日々の実践から紹介させていただきたい。 「流域思考」を基軸とした都市の自然再生活動を本格的にスタートさせた1980年代末のこと、保全活動の中心地でもあった鶴見川源流の、事故で湧水の枯渇した細流から、私たちはアブラハヤ(淡水魚の一種)の地域集団数十個体を2キロほど離れた近隣の谷に移動させ、湧水復活後、もとの谷にもどしたことがあった。予期した通りというべきか、新聞やテレビでも報道されたこの活動を目にした某保全生物学研究者から、間髪をおかず激しい抗議がおくられてきた。いわく、「固有の生息地からの集団の移動は、国内外来集団を生み出すことになるので認められない。ましてや湧水回復後に復帰させるというのは、環境改変後の地域への移植であり、 また近隣とはいえ別地域の個体群との混合、遺伝子汚染(!)の恐れがあり、さらにさらに認められない。貴殿は生態学者の風上にもおくわけにゆかない。そのアブラハヤ小集団は、湧水枯渇時に、元の生息地において全滅させるのが、保全生態学的に適切であった」 あれからもう30年になろうとしているのだが、いま筆者の自然保護の現場に、直接、間接に登場する日本国保全生態学者たち、あるいはそれに同伴する自然保護活動家たちの主張は、なお同じ中世世界にとどまりつづけているように思われて、ならないのである。 人類活動における温暖化、生息地破壊・改変の現実の中で、私たちの未来が目指すべき自然は、中世全体主義的な生態学理解が空想する復古中世的な自然ではなく、だれが在来で外来か、 という神学的な論議をすることも時には不可能になってゆくような、人新世(Anthropocene)的激動の〈新しい野生=在来・外来混在の野生〉と格闘しながら、安全、生物多様性、そして生態系サービス充実の管理可能な生態系をめざしてゆくほかないのではないか。その実践、判断をささえる、基礎生態学の再建、あらたなファンクラブの創出が、実はいま我が国の自然保護領域における最大の課題なのではないだろうか。 本書を契機として世界の関連著書にふれ、自然保護の課題から現代生態学の基本理解の世界にいたる若い生態学者たち、自然保護の実践の現場から湧きいでよ。そう願うこと、しきりである。   




巻末解説者のメモ

Memo〜 すみわけ論〜  

今西錦司は種の社会というのが一部重複(あわさる)しながら、出来る限りかぶらないように時間をずらしたり、暮らしている空間を変えたりしながら暮らしているとするのが「すみわけ論」で、たまたま人間がその空間だけをみると、単純な複合社会になるということ。 例えば、生きものたちの暮らしを記述する便利な言葉の一つに「すみわけ」という表現がある。 鳥は空に、獣は地に、そして魚は水に、すみわける。 同じ水中のハゼも、たとえばヨシノボリは淡水に、マハゼは汽水にすみわける。水辺の鳥も、コサギは昼、ゴイサギは夜とすみわける。もちろん植物も、コナラは平地、ミズナラは山地の雑木林にすみわける。今西錦司の〈すみわけ論〉の圧倒的な影響もあって、すみわけ、という言葉は、日本のナチュラリストたちの日常用語の一つになった。 抽象的に規定すれば、〈生存·繁殖に関連する諸条件が種ごとに異なることをすみわけと呼ぶ〉などという定義も可能だろう。この場合、生存·繁殖にかかわる諸条件 (すみ場所、食物、繁殖場所、活動時間など)のセットをニッチ(生態的地位)とよび、すみわけ、と呼んでも同じである。ニッチが種ごとに異なることをさす。  


Memo〜 遺伝子汚染〜  

「遺伝子汚染」という恐ろしい言葉も度々耳にしたりすることもあり、恐ろしいことです。遺伝子が混ざる=人種が混ざると汚染=良くないことになる という理論はとても恐ろしいものです。系統の違うものを混ぜると汚いという根拠のよくわからない哲学が今の日本では広がっている恐ろしさもあります。 更に恐ろしいことに、この原理が人間にも適応され、外国人の人権侵害をおこなっても良いというハードルが下がることまで考えるのは、私の心配しすぎでしょうか。 現実にナチスドイツの時代の記録があります。 



  

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 




巻末解説 

 著者ピアスの筆は、そんな落としどころをおさえつつ、外来種だけでみごとな安定性をしめす生態系が実在すること、外来種の介入があればこそ豊かな生物多様性・生体機能を発揮する在来・外来生物の混合生態系(=新しい野生)が存在すること、特定の外来種が生態系攪乱・破壊の元凶とされるさまざまな事例において外来種は実は犯人ではなく、人間による汚染などの環境破壊に局所・局時的に対応しただけの存在であることなどを、読みつかれてしまうほどの執拗さで事例をあげ、解説しているのである。

  そんな吟味をとおしてピアスが紹介する、新しい生態理解、厳密極まる共進化の産物としてあたかも超個体のように形成される、あるべき自然という中世的な自然理解に対抗する新理論は、種をもっと自由で、主体的な存在と見る、グリーソンやジャンゼンに代表されるような、個体主義的な種の理解、生物群集の理解である。いま、目の前で、「手付かずの自然」とみえる生物群集を構成している種は、長大な進化の歴史をその場所で共有し、共進化してきた存在ではなく、もしかしたら、さほど遠くない過去において、自然のさまざまな偶然、あるいは人為によってその場所に到着した、外来種同志かもしれない。そんな外来者が、いまそこで偶然うまく相互適応(生態的調整)しているだけなのかもしれない。いや、実はそのようなケースが、 むしろ普通なのかもしれないという、理解なのだ。

  この理解からすれば、全ての種は、なんらかの特定の生物共同体の一員としてはじめて適応的な存在なのではなく、それぞれの種に固有の歴史や都合、いわば主体性において適応的な存在なのであり、何らかの程度に常に「在来」そして「外来」生物なのだということになる。保全生物学にとって、この理解が革命的でないわけがないのである。ピアスは、このような理解のもとに新しい生態学をすすめ、自然保護をすすめている世界の研究者たちの現状を、有能なジャーナリストとして取材し、報告する。 



巻末解説者の解説 

岸先生’s 解説 ④ 

よく使われる言葉が、生息地を生態系とイコールにする考え方です。本来の生態系に他の種が入ってくると外来種という議論です。そうなると、本来の生態系とは何なのか?生態系の範囲とは何なのか?生態系の範囲とは、自然の区域で決まるという説もあるし、まだ定まっていません。 仮に、生態系という空間があり、生息地=生態系とするなら、生息地は種ごとにずれていって、それがまだら模様に重なり合っているはずです。そこを人間が空間を切り取って生態系と定義しても、それは人間が勝手に決めた基準であり、そこには様々な種が出入りして、そこだけで完結する生態系はありません。 そこで、根本的に考えると、すべての生物は適応する場所に移動し存在する範囲=生息地は動き続けます。つまり、すべての生物は外来生物であり、在来生物と言うことになるのです。言い換えると、すべての生物は移動を繰り返すので、移動を繰り返す中である一定の空間を基準とすると、その空間にいずれの種も出入りするため外来であり、在来であるのです。 



岸先生’s 解説 ⑤

 分布境界線や生物地理区というものが昔からあります。しかし、地球温暖化などによって、南にいた生物が生物地理区や分布境界線を平気で超えて移動します。これまでは、それぞれの生息地の中だけでずっと生きものは世代を交代するという考え方が主流でしたが、それは本当でしょうか。生きものは適応できる範囲が増えたら、その環境に適応するように生息地を拡大させるということは当然ではないでしょうか。すなわち、生息地は絶えず縮小、拡大し、同じということは無いのです。 南方系のアゲハチョウと柑橘系の植物の関係はなかなか切れないけど、北方系のキアゲハとセリ科の植物の関係もなかなか切れない。けれど、南方系のアゲハチョウと北方系キアゲハが両方いる山のすべての種が何万年もの共進化を通して、相互適応しているというのは考えにくい。たまたま、北方系と南方系の分布が重なっただけと考える方が自然ではないでしょうか。それぞれの進化の歴史を背負ってたまたま分布が重なりあったところにいる様子を空間的に切り取って群集としているだけと思うの考え方の方が妥当であると思うんです。 



岸先生’s 解説 ⑥ 

言い換えて例で説明してみると、ある池があって、そこに様々な種類の生きものがいます。それは、過去10万年前からお互いに共生して暮らしてきた、という理解もできますよね? だから、大事だな、守らないとと思っちゃう人もいる。でもよく調べて見ると、そこにいるゲンゴロウは昔にはいなくて、偶然、100年前に池に来て、魚は二十年前に、人間によって連れてこられて・・・結果的にうまく折り合いをつけて生物同士が暮らしているだけということも考えられるでしょ。その様に、本来生物の群集というもの様々な偶然によるものではないのかという考え方もあると思っています。生態学的にはどっちがいいかというと、おそらく後者の方ではないかと僕は思っています。 



巻末解説者のメモ

Memo〜主体性と系統的束縛〜

 ここで言う主体性とはクジラは海にいるけど、鰓呼吸できない。というように、ある種がもっている頑固な性質を主体性として言うことにする。例えば、メダカは洪水で海まで流されても死なないように、塩分に耐性を持っている。山奥のため池に隔離されたといっても塩分耐性は変わらない。これをメダカの主体性と僕は言うことにする。メダカはこういう主体性を持った種なんです。つまり、すべての種は独自の進化の中で生き延びてきたことで、それぞれの主体性、適応能力を持っているんです。だから、池にいるメダカがその環境だけで単純に進化してきたと考えるほうがおかしいというわけです。 クジラの例のように生物は種ごとに進化の歴史、適応の歴史、系統の歴史があり、それぞれの特性をもって暮らしている。それを系統的束縛と言います。その系統的束縛の中でしか変異ができない、その中から適応的なものが選ばれるということになります。しかし、メダカの例のように大事なのは生息している場所で自分の能力を全部使って暮らしているのではなく、使わない能力も持っている。だから、使わない能力が必要な環境になったときに、その能力を使い、生き延びるということ。だから、今ある環境だけでどう適応していくのかを考えるでは厳しいということ。  



巻末解説者    

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 


巻末解説

 その理解からすれば、生態系から離脱した種(外来種となった種)は、バランスを喪失する。重要な構成種を失った生態系も、崩壊する。外来種群によって攪乱される生物群集・生態系はさまざまな混乱を生じ、崩壊することもあるということになる。中世的ともいうべきそんな生態理解のもとで自然保護を論ずれば、守るべき価値のある種は、〈在来種〉であり、〈外来種〉はなんであれ忌避されるべき存在、回復されるべき自然は、本来その場に歴史的進化史的に共存すべき在来種の作り上げる生物群集=原生自然=手つかずの自然、「外来種」は除去・拒否すべきという実践指針がうまれてしまうのは、理の当然であったというほかない。 

 植物群落の再生にあたっては、公園であれ、防災林であれ、「潜在自然植生」というまかふしぎな種がしばしば実証も無視して珍重され、同じメダカであっても、地域固有であることが遺伝子分析で推定されるものは絶滅危惧種だが、ペットショップ由来のメダカは、除去・排除の存在でしかないというような、我が国の自然保護の現場の理解も、実はそんな中世的な生態理解の産物なのだと言って、たぶんあやまりではないはずである。

  しかし、予想される通り、そんな中世的な生態理解はもはや生態学の前線の正統ではなくなり、さまざまな批判、対抗理解によっておきかえられつつある。それに対応して、自然保護の理解、「外来種」「在来種」の理解、評価も、到底一枚岩でない状況となった。「外来種はなんであれ排除せよ、より古くから固有と認定される在来種こそ保全されるべき」という常識的な自然保護論は、現代生態学の領域ではすでに四方から批判され、吟味されるべき、過去の命題となっているのである。





巻末解説者の解説  

岸先生’s 解説 ③

 例えば、池に様々な動物や植物などの生きものがいて、それぞれがそれぞれの種の相互関係の中にいる(=ニッチという特別な地位が与えられている)とする。そんな池に外来種が入ってくると、ニッチを奪われてしまう=ニッチが崩壊してしまう。=生態系が崩壊・壊れてしまう。という発想をしている人が多いよね?  テレビとかでもある池にアメリカザリガニが入ると、生態系が滅びるとか壊れるということをやたらと聞くことがあると思う。 そういう理解からすれば、生態系を壊してしまう外来生物は全部取り除かないといけないということになる。とってもわかりやすいものになるんだ。 でも、本当に生態系は崩壊するのかな?破壊するのかな?それは違うと僕は思う。崩壊や破壊ではなく、生態系が変化する。崩壊された生態系、破壊された生態系というのではなく、変化した産物という理解。 例えば、大きな池にカダヤシが入ったから生態系が崩壊する。大きな池にキショウブ(園芸種)が入ってきたから生態系が壊れる。それ本当のことなのかな? それでも、池で外来種を見つけたら、なんでも駆除する!という発想に多くの一般市民がなっている。それはおかしいという人が極端にいない時代になっている。 



巻末解説者のメモ

Memo 〜メダカ〜  

僕の活動する横浜には横浜メダカというのがいます。横浜メダカは更に細分化されて、横浜の小学校で飼育されています。しかも、他の地域のメダカと混ぜてはいけないということで、隔離されて飼育されています。僕が活動する鶴見川などには誰が捨てたのかわからないメダカがたくさんいます。僕は思うんだけど、夏に使い終わった学校のプールに横浜メダカを放流して、ドンドン増やしてそれを一斉に川に戻すと、数年で川のメダカの遺伝子の多くは横浜メダカの遺伝子に変わると僕は思っています。なんでやらないの?と聞くと、ちょっとでも混ざったら遺伝子汚染(!!)するという考え方が浸透しているから、だれもやらないのです。それを束縛しているのが、中性的な生態理解なんだとぼくは思います。  



Memo 〜中世的な生態理解〜  

中世の自然理解を示していて、この世にあるものすべて神様の設計によって作られたもので、存在するすべての生きものはつながっていて、神様の定めた位置で階層秩序で仕事をしているという考え方=自然の摂理のこと。つまり、自然の摂理から生きものを取り除くと、自然の摂理が崩壊するかもしれない。自然の摂理に他から生きものを加えると、自然が壊れる。さっき言っていた、生態系が壊れるとかとよく似ているよね。中世の世界の自然の理解を今でもしているということなんだ。



Memo 〜潜在自然植生〜

 その地域の遷移の秩序の最終形態の極相という森を構成する木々のことを言う。潜在自然植生とはありとあらゆる意味で、人間にとっても、生物にとってもいい森になるという考え方。  


巻末解説者  

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。


巻末解説

 現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本が登場した、というと、意外に思われるかもしれない。扱われているのは、自然回復論。外来種をどう理解し、評価するか、未来の自然保護をどのようなビジョンで考えるか、そんな話題ではないか。そのどこが現代生態学の基礎テーマにからんでいるというのだろう。 

 現代生態学の基礎テーマというと、まっさきに、ドーキンスの利己的遺伝子論や、やたらに複雑な数理生態学のことを連想する読者がいるかもしれない。それはそれで、正しいのだが、自然回復、自然保護などを扱う生態学のいわば本道における基礎テーマは、すこし焦点が違う。きわめて重要な領域なのだが、とくに日本の生態学の領域ではなかなか話題にするのも難しく、わかりやすい専門書もほとんどないのが実情だ。そんな、わかりにくい世界について、「外来種をどう評価するか」という現代保全生態学の論争的な話題を切り口に、さらりと紹介してしまう、というか、さらりと紹介してしまった著者の手腕に拍手をおくりたい。

  生態学という分野は、生物の種の生存・繁殖と、環境条件との関係を扱う、ダーウィン以来の生物学の一分野である。と同時に、生態系、生物群集などという概念を使用して、地域の自然の動態についても議論をする分野でもある。種の論議と、生態系や生物群集の論議は、かならずしもわかりやすくつながっているわけではないので、 2つの領域はしばしばまったく別物のように扱われることもあったと思う。

  しかし、20世紀半ば以降、実はこの2つの分野をどのように統合的に理解するかという課題をめぐって、生態学の前線に大きな論争あるいは転換があり、古い生態学、とくに古い生態系生態学、生物群集生態学になじんできた日本の読者には、「意外」というほかないような革命的な変化が、すでに起こってしまっているのである。その転換を紹介するのにもっともよい切り口が、「外来種問題」、これに関連する「自然保護の問題」といっていいのである。 古い生態学の中心概念と思われていた生物群集、あるいは生物群集を重視する生態系は、しばしば、超個体などともよばれる有機体論ふうの全体論哲学につらぬかれていた。いわく、生物群集・生態系は、進化の産物として厳密・厳格な種の相互関係、共進化にささえられており、個々の種は、歴史的に形成されたその厳格な相互関係の結節点(ニッチなどともよばれた)に、みごとに適応する存在として位置付けられていた。攪乱されることなく、保持された「手付かずの生物群集・生態系」は、それ自体が、微妙なバランスのもとに相互適応する代替不能な種によって構成され、「遷移」という歴史法則にそって「極相」とよばれる完成形にいたる、歴史法則的な存在とみなされていたのである。 





巻末解説者の解説

岸先生’s 解説 ①  

20世紀半ば以降の生態学の歴史には様々な転換があります。20世紀前半の生態学には群集論的な思想が主流であった。その当時は、それぞれの種に焦点をあてられていたのではなく、種があつまった集団=全体。様々な種が集まったものを中心として生物を扱っていたんだ。基本的には群集というのは時代が経つにつれて超個体となるという考え方。それぞれの個体が、種が密接に関わり続けると、ある一つの種のような存在=超個体になるという考え方。 それが、少しずつ違うんじゃないかという考えが出てきて、次には生態系という概念が生まれるんだ。群集だけではなく、群集と関わる物理的な環境なども含めて考えようという考え方。生きものの種の関係だけだとうまくいかないけど、物質の循環やエネルギーの流れも含めて考えるやりかた。みんなも、食物連鎖や生態系ピラミッドとか聞いたことがあるだろ?それも全部、その考え方なんだ。その中で生態系というものは様々な生きものの絶妙なバランスで保たれているという考えも出てくる。 



岸先生’s 解説 ②

 そういう理解からすると、本来の生態系から取り出した種は、本来の生態系の種じゃない=それをもとに戻すと生態系のバランスが崩れてしまうから、もう無視していいという考え方も出てきたんだ。 例えば、少し前までは外来種=本来の生態系にいない種(ウシガエルのオタマジャクシやアメリカザリガニ)を食べたカワセミはもう日本のカワセミではない!ということを平然という人に出会ったことがある。 つまり、極端な言い方をすると日本の正しい生態系の中にいるカワセミだけど、よそから入ってきたものを食べてるカワセミは生態系から取り除かれたものを食べているから滅んでも良いという極端な考え方なんだ。そんな考え方になるのも、今まで言ってきた、生態系などの理解からすれば予想される発想だと僕は思う。 


巻末解説者