TED講演 書き起こし(もとの動画は以下です)


私たちは子どもたちから自然を奪っています。 


これは自然破壊が進み「自然を保護してくれていたら」と子どもたちが思う日が来るという意味ではありません。 ただ残念ながら、その可能性もありますが、私達は長い間とても純粋かつ厳密に自然を定義してきました。 私達が作り上げてた定義に従うと今の子どもたちが大人になる頃には、自然は残っていないでしょう。 ですが、この結果は変えられます。 説明しましょう。 

 現在、人間は世界の半分を使って生活し、作物や材木を育て家畜を放牧しています。 もし、人間を全員まとめたらそれはすべての野生哺乳類の10倍の重さになるでしょう。 私達は森を切り開き、道を作りました。 私達のせいで、砂浜にはプラスチック粒子が混ざりました。 私達は化学肥料を加えることで、土の化学構造を変えました。 それから、空気の化学構造も変えました。 だから、皆さんが次に吸う息には1750年の空気と比べて二酸化炭素が42%多く含まれます。 これらを含むいろいろな変化は「人新世」つまり人間の時代という名前の下にまとめられます。 この用語は地球に与える人間の影響が大きいことから数名の地質学者が現世に与えるべきだと考え提案した名称です。 まだ提案中の名称に過ぎませんが、地球に対する人間の影響力の強さを考えると意味あることだと私は思います。


 では、自然はどう位置づけられるでしょうか? すべてが人類に影響された世界において何を「自然」と呼べるでしょうか? 25年前 環境作家であるビル・マッキベンは言いました。 「自然は人間とは別のものだ」と そして気候の変化は人間が地球全体を変化させたことを意味するので、「自然は終わりを告げたと」こう言ったのです。 実際に彼の著書の題名は「自然の終焉」です。 私はこの考えに反対です。まったく賛成できません。 このような自然の定義には同意できません。 本来、私達は動物だからです。 そうですよね? 私達はこの地球で進化する過程で、あらゆる動物、植物、微生物とこの惑星を共有してきました。 ですから自然とは、人間に触れられたことがないものという意味ではないと私は考えます。 私の考えでは、自然とは生命が繁栄する、あらゆる場所・複数の種が存在している場所 そして草木や水があり、生命に満ち、生命が繁栄し、成長する場所です。 自然をこのように定義すると、すべてが少し違って見えてきます。


 確かに私達に特に訴えかけるような、自然があることは分かっています。 イエローストーン国立公園やモンゴルの大草原地帯、グレートバリアリーフ、セレンゲティ国立公園、このような場所は人類がすべてをめちゃくちゃにする以前のエデンの園のような自然の姿だと思われています。 こういった場所は人間の日常的活動からあまり影響を受けません。 例えば、このようなところは大抵、まったく道路がないか、ほとんど無いからです。 しかし、最終的にはこのような楽園でさえ、人間の影響を大きく受けるのです。 


TED講演 書き起こし(もとの動画は以下です)   


 では、北米を例に考えてみることにしましょう。 ここは北米ですからね。

 約一万五千年前、人間が初めてやってきて自然と関わりをもつようになりました。 その結果、大型動物の大量絶滅を引き起こしました。マストドンや巨大な地上性ナマケモノやサーベルタイガーといったすごい動物は残念ながらことごとく絶滅しています。 そして、動物たちが絶滅すると、生態系も変化していきました。大規模な連鎖反応により草原が森へと変化し、森林を構成する樹木も変わりました。 

ですから、このような楽園=一見、人間が来る以前の完璧な状態を保っているように見える場所でさえ、私達が見ているのは、実は人間に影響された風景なのです。 これは先史時代だけでなく、有史時代の人間、そして先住民から、最初に現れた開拓者に至るあらゆる人間です。 そして、これは他の大陸でも同じことです。 人間はとても長い間大きな影響力を持って、自然に関わり続けてきたのです。 


つい最近、ある人が私に言いました。

「まだ手つかずの自然がありますよ」 私はこう答えました。「どこですか?行きたいですね」 するとその人は言いました。「アマゾンです」 「アマゾンですか! この前行ってきました」「素晴らしいところですよね」 ナショナルジオグラフィックの派遣でペルー・アマゾンのマヌー国立公園に行ったのです。 そこは広大な熱帯雨林で伐採されておらず、道もなく国立公園として保護された世界で最も生物の多様性に満ちた国立公園の一つです。 カヌーに乗って、そこへ行った時、私が目にしたもの それは人間でした。 人々は何百年、何千年もの間、そこに住んでいます。 ただジャングルを行き来するだけでなく生活を営み、周囲の環境と密接な関係を構築していました。 彼らは狩りをし、作物を育て、植物を栽培しています。 彼らは天然資源を使って家を建て、屋根をふきます。 彼らは野生動物をペットにもしました。そこに住む人々は自然と交流しているのです。 これはとても意味のあることですし、交流の跡を環境の中に見ることができます。

 この視察で一緒だったある人類学者が川を下っている途中こう言いました。「アマゾンには人間がいない場所はないんだ」 この言葉は私の頭から離れません。 アマゾン全域で状況が似ているという意味だからです。 人間のいない場所は無いのです。 他の熱帯雨林も同じです。 熱帯雨林だけではありません。 過去、人間は生態系に影響を与えましたが、現在もあまり目立たない場所にまで、影響を与え続けています。 

もし私達が使おうとする自然の定義に『人類が触れたことがない』とか「人が存在しない」という内容が含まれ、その定義のせいで「自然はない」という結論になるなら、おそらく定義が間違いなのです。 自然の定義は複数の種が存在することや、生命が繁栄していることに基づくべきでしょう。 そのように考えると、結論はどうなるでしょう? 

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奇跡のようなことが起きます。 

突然、私達の周りに現れるのです。 

急にオオカバマダラの幼虫が植物を食べるのが見えてきて自然があることに気が付きます。


  チャタヌーガのこの空き地にもあるのです。 この空き地を見てください。 ここはおそらく、少なくとも12種類の植物が存在していて、虫たちの生活を支えています。 ここは一切管理されていない完全に野生に支配された場所です。 ここは私達のそばにあるのに気づかれていない。 手つかずの自然なのです。 ここには面白い小さな矛盾もあります。 この自然、つまり野生で人の手が入っていない都市部、周辺部、郊外の植物相は誰にも気づかれませんが、そこには間違いなく国立公園より手つかずの自然があります。



 21世紀の国立公園はとても厳格に管理されているからです。 オレゴン州南部クレーターレイクは私の家に一番近い国立公園ですが、まるで太古から飛び出してきたような美しい光景の代表のような場所です。 でも、そこは厳格に管理されています。 問題の一つにアメリカシロゴヨウの絶滅の危機があります。 アメリカシロゴヨウは美しく魅力的な松です。 高地で育つ、とても魅力的な巨木ですが、現在では病気などによって問題が引き起こされています。 発疹さび病の侵入やキクイムシの害です。 これに対処するために国立公園局では、さび病に耐性のあるこの松の苗を公園内や管理上 原野とされている場所にさえ植えています。 また、キクイムシの駆除剤を主要な場所に撒いています。 私もハイキング中にそれを見ました。 このようなことは予想以上によくおこなわれています。 国立公園は厳重に管理されているのです。 野生生物の個体数の構成は一定に保たれています。 


野火は消化され、野焼きが行われます。 

外来種は駆除され、在来種が再導入されます。 実際、調べてみるとバンフ国立公園でも同じことが行われています。 野火の消化や野焼き、狼に発信機を付け、バイソンを放す。 手つかずの自然に見せるために多くの仕事をしているのです。 そして、さらに皮肉なことに私達はそのような場所が大好きですが、時には好きになりすぎてしまうのです。

 このような場所に行きたい人は多いので、地球の変化に直面しているこれらの場所は安定するように管理されていますが、そのせいで次第にもろくなる場合もあるのです。 するとこのような場所は休日に子どもと行くには最悪の場所になります。 そこでは何もできないからです。

 木には登れず、魚釣りもできない。 原野の真ん中ではキャンプファイヤは禁止、松ぼっくりも持ち帰れません。 多くのルールや制限があるからです。 

子どもの側からしてみれば、まさに最悪の自然です。 子どもは5時間もかけてハイキングし、きれいな景色を見たいなんて思わないからです。 それは、大人がやりたいことでしょう。 

一方、子どもは一箇所にしゃがみこんで何かいじったりそれで遊んだり拾ったもので家とか基地を作ったりそんなことがしたいのです。 それに加えてこのような自然の楽園は、たいてい人々の生活空間から離れて、行くにはお金がかかります。 簡単には行けません。 お金持ちしかいけないということ、これが本当の問題なのです。   

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自然保護団体 ザ・ネイチャーコンサーバンシーが若者を対象にどの位の頻度で屋外で過ごすか調査しました。 

すると、大抵は週に1回、屋外で過ごす人は5人中わずか2人で残り3人は屋内で過ごしていたのです。 

その人達に外に出ない理由や原因になっていることを質問すると61%の人がこう回答しました。 「自宅の近くに自然がないから」これはおかしな回答です。 完全に間違えています。 というのもアメリカに住む人々の71%が都市公園から徒歩10分以内の場所に住んでいるからです。 おそらく他の国々でも変わらないでしょう。 さらにこの数字には自宅の裏庭や都市を流れる小川や空き地は入っていません。

 みんな自然の近くに住んでいます。 子どもたちもみんな自然の近くに住んでいるのです。 

ただ、そのような自然が見えなくなってきているだけです。 

自然がすごく魅力的なデイビット・アンテンボローのドキュメンタリーの見すぎで、文字通り玄関前にある自然や街路樹の中にある自然の見方を忘れているのです。 

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フィラデルフィアのことです。 

そこには素敵な高架鉄道がありますが、地上から見ても分かる通り廃線になっています。

 マンハッタンの空中公園ハイラインができる直前とよく似ていますがこちらはまだ計画中で公園として整備されていません。 

ですから今のところ、フィラデルフィアの中心部にもかかわらず、まるで秘密の原野のようです。 もしあなたがフェンスの穴を見つけ、高架上によじ登ることができれば、大都市フィラデルフィアに浮かぶ完璧な野生の草地を見ることができます。 ここに育っている植物はすべて、種から自然に生えたものです。 完全に自律し、勝手に発生した自然です。 都市のど真ん中なのにです。 この場所でいくつかの生物調査が行われた結果、50種類以上の植物があることがわかりました。 しかも、植物だけではありません。 ここは一つの生態系、それも機能している生態系です。 土壌が作られ、炭素が分離され受粉が行なわれています。 これは本物の生態系なのです。


 科学者はこのような生態系を「新しい生態系」と呼ぶことにしました。 なぜならそこは外来種が支配する極めて奇妙な環境だからです。 それは私達が初めて目にする環境です。 長い間このような新しい生態系は価値のないものとされてきました。 ここで言っているのは、雑草の生えた農地や日常的に管理されていない山林、再生した森林全般や、農地が西武に移動した後に森林が生じた東海岸全域のことです。


 また、ハワイではほとんどの場所に新しい生態系があるのが普通で、圧倒的に外来種が優勢です。 この森にはクイーンズランドメイプルや東南アジア産のタマシダがあります。自分で新しい生態系を作ることもできます。 それはとても簡単です。 ただ、庭の草刈りをやめれば良いのです。 フィンランドの生態学者イルッカ・ハンスキはある実験をしました。 彼は庭の草刈りをやめ、数年後、何人かの大学院生を呼び、彼の庭を調査したところ、375種類の植物が確認でき、その中には2種類の絶滅危惧種もありました。 将来、フィラデルフィアの空中公園になるであろうこの場所はこのような野生や、多様性や、豊かさと活気に満ちています。


下を覗くと地元の学校の運動場が見えるような場所なのです。 ココにいる子どもたちには、私の定義によれば自然と呼べる場所はたくさんありますが、ここは自然とは言えない数少ない場所の一つでしょう。 人間を除いて何もありません。 他の植物や動物はいません。 私が本当にやりたいのは、この場所にハシゴをかけて子どもたちと一緒に登り、涼し気な草地に行くことです。 


TED講演 書き起こし(もとの動画は以下です) 


ある意味、これは私達に迫られた選択だと思うのです。

もし、このような新しい自然を認めず、ムダで不要なものとして却下したとすれば、そこをコンクリートで覆ってしまうでしょう。

すべてが変化し続ける世界では、慎重に自然を定義する必要があります。 子どもから自然を奪うことがないように2つのことをしなくてはいけません。 


はじめに、手つかずの自然だけを自然と定義するのはやめることです。 これでは筋が通らないからです。


過去、何千年も手つかずの自然などないからです。 人々がもっともよく訪れ、関係を持っている自然はこの定義からほぼ除外されますし、そこには子どもたちが触れあうことができない自然も含まれます。 

これがすべきことの2つ目につながります。 子どもたちを自然に触れさせるのです。触れないものは愛せないからです。 私達はこの地球でとても残酷な自然


 気候変動もその一つです。 他にもあります。 私は生息地の消滅に関心がありますが、真夜中にそのことを考えるとゾッとします。 これらを解決するために、私達に必要なのは賢くて熱心で自然に関心のある人の存在です。 自然を大切にする世代を育てる唯一の方法とは自然に触れさせることです。

 私には「生態学の基地理論」「自然保護の基地理論」があります。 私の知る生態学者や保全生物学者、自然保護専門家はみんな子どもの頃 秘密基地を作っていました。


 

基地の作り方を知らない世代は自然を大切にする方法がわからない世代になるでしょう。 この子を見てください。 フィラデルフィアの貧しい地域に住む子どもを都市の公園につれていく。 特別プログラムに参加しているこの子に 『持っている花は外来種で、雑草だから捨てなさい』なんて私は言いたくありません。 

私はもっとこの男の子から学んだ方がいいと思っています。 この植物がどこから来たのかは関係ない、植物は美しく、触れて愛する価値があるのです。 ありがとうございました。   

 

問いについて「正しいのか?それとも正しくないのか?」と考えてしまった人は多いんじゃないでしょうか。


 わたしたちはこの間いに対して「絶対に正しい、あるいは絶対に正しくない」という答えは実はできないはずです。 


なぜならその場その場で状況が違うからです。


哲学者で教育者である苫野一徳さんは著書「勉強するのはなんのため?」で以下のように解説します。 

「もしもボートにものすごく冷酷な男が乗っていて、目にとまったある女性をいきなり海に突き落としたとしたらどうでしょう? この場合、男の行為は(それによって残り一〇人が助かることを考えると)、「絶対に正楽しくない」とはいえないにしても、かなり問題のある行為だと多くの人は感じるでしょう。 しかし一方で、もしもそのボートの中にとても正義感にあふれた人がいて、一〇人を救うためみずから海に身を投げたとしたらどうでしょう?この場合、その人の行為は(残された家族のことやそれ以外の選択肢もあったかもしれないことを考えると)、「絶対に正しい」とはいえないにしても、すごく「立派な」行為だと多くの人は感じるでしょう。」 


外来種が悪い・悪くないという二者択一の質問ではなく、私達は外来種とどう向き合っていけばよいのでしょうか?

考えていきましょう!


「外来種が悪い・悪くない」という 二者択一の問い方をやめてみる 


▼二者択一のワナ・問い方のマジックに引っかからない 

外来種について考える前に一つ、前提としておさえておくべきものを紹介します。

哲学の世界で有名な考え方ですが、熊本大学准教授の苫野一徳さんは「問い方のマジック」にひっかからないようと言っておられます。


「問い方のマジック」とは何でしょう? 良い・悪いなどの二者択一でどちらかが正解であると思わせるような問い方です。


「1+1=2と、1+1= 3、どちらが正しいか」という問いであれば、それは問うまでもないことです。正解が明確にありそうな問いと白黒つけがたい問いがあることをまずは理解しましょう。


 ちなみに、こうした究極的な選択の是非を問う問題は、わたしたちの身近でもよく出会うものです。こうした問題は、ある状況を設定したうえで「正しいか、正しくないか?」と問うことで、人の行為には、いついかなる時も絶対に正しい選択=答えがあるかのように人を錯覚させてしまいます。


そして、その場その場に応じて柔軟に行動するというしなやかな発想を奪ってしまうのです。 私達が白黒つけがたい問いと出会った場合、それが白黒どちらであるかを、絶対的に決定してしまうわけにはいかないはずなのです。 


つまり、「あちらとこちら、どちらが正しいか」と問うことをまずやめようということです。  


例をあげて説明しましょう。

苫野一徳さんの著書「勉強するのはなんのため?」には以下のように紹介されています。

 「学校の勉強は、実生活を送るうえで役に立つか、それとも立たないか?」 …

さて、みなさんはどう思うでしょうか? 「なんで勉強なんかしなきゃいけないんだろう?」という問い方を「学校の勉強は、実生活を送るうえで役に立つか、それとも立たないか?」に変えて問うてみました。 これが、わたしの言葉でいう「問い方のマジック」です。つまり、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」という、二者択一問題のことです。学校の勉強 は、実生活で役に立つか、それとも立たないか。そう問われると、わたしたちは思わず、どちらかが正しいんじゃないかと思ってしまいはしないでしょうか?でも、この問いはどちらかが絶対に正しくて、どちらかが絶対に間違っているというような問いではありません。実生活で役に立つものもあれば、あんまり立たないものもある。というより、それは人によって違うから、まさに「一般化」できない問題なのです。」 (「勉強するのは何のため? 」日本評論社)   

▼一般化のワナに引っかからない 

「一般化のワナ」とは何でしょうか?

苫野一徳さんは以下のような例をあげて説明しています。 

「凶悪な少年犯罪の報道を、みなさんも目にしたことがあると思います。一〇代の少年たちによる、バラバラ殺人事件、バスジャック事件、一家殺害事件など、目を覆いたくなるような事件がつづいてきました。こうした事件が起こるたびに、みなさんはこんな言言葉を耳にしはしなかったでしょうか? 「最近の子どもたちはどんどん凶暴化してる……」 「近ごろの若者は何をしでかすかわからない..……」




 わずか数例の事件を聞いただけで 「最近の子どもたち一般」を語る、まさに「一般化のワナ」です。 


データがはっきり示していますが、実は少年犯罪の数は、この二、三〇年ほとんど「変わっていないのです。少年による凶悪犯罪の数もまた、ほとんど変わっていません。

むしろ、1950〜1960年に比べると、少年犯罪は減少してさえいるのが実態です。 「増えたのは、実は少年犯罪 についての報道の量なのです。こちらは間違いなく大幅に増えました。それに、かつてはテレビやラジオ、新聞くらいしかニュースにふれる機会はなかったけれど、今ではインターネット上にさまざまな情報が飛び交っているから、わたしたちが日ごろふれる情報量は格段階に増えています。そんな中、一年に何度か少年たちの凶悪犯罪の報道 にふれると、わたしたちは、それが「少年一般」の傾向であるかのように勘違いしてしまいます。まさに「一般化のワナ」に陥ってしまうのです。」 



Point 一般化のワナとは自分だけの限られた経験や情報を他のモノやコトにもあてはめ、一般化してしまう傾向にあることに気づく 

「外来種が悪い・悪くない」という二者択一の問い方ではなく、
 第三のアイデアを・・・ 


わたしたちは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」

じゃなくて、いったいどのように考えていけばいいのでしょうか。 

考え方はシンプルです。 あちらもこちらもできるだけ納得できる、

第三のアイデアを考えてみようということです。あっけないほどに単純です。でも、このことを十分に自覚していることが、とてもたいせつなことなのです 。 


 「外来種が悪いとか・悪くないとか」を超えて・・・


 外来種がたくさん入った自然はもはや自然ではない、

外来種は悪いから見つけたら駆除すべき・・・

外来種と在来種との間の雑種は野生化させることは望ましくない。  

そのような、従来の自然保護では「当たり前」と疑問符を突きつける本の出版が近年続きます。「自然という幻想」「外来種は本当に悪者か?」「なぜ私達は外来種を受け入れる必要があるのか」「外来種のウソ・ホントを科学する」などなどです。 


「外来種が悪い・悪くない」という問い方のマジックと一般化のワナを超えて、その場その場の状況にフィットした第三のアイデアを考えるべきときではないでしょうか。 

ここからはそれら本の翻訳や解説を多く担当されている進化生態学者で慶應義塾大学名誉教授の岸由二さんへのインタビュー等をもとに、未来の自然回復ビジョン・外来種をどう理解し、評価するのか、そして、自然回復と教育の重要性についてみなさんと一緒に考えていきましょう。 


巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。


巻末解説

 現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本が登場した、というと、意外に思われるかもしれない。扱われているのは、自然回復論。外来種をどう理解し、評価するか、未来の自然保護をどのようなビジョンで考えるか、そんな話題ではないか。そのどこが現代生態学の基礎テーマにからんでいるというのだろう。 

 現代生態学の基礎テーマというと、まっさきに、ドーキンスの利己的遺伝子論や、やたらに複雑な数理生態学のことを連想する読者がいるかもしれない。それはそれで、正しいのだが、自然回復、自然保護などを扱う生態学のいわば本道における基礎テーマは、すこし焦点が違う。きわめて重要な領域なのだが、とくに日本の生態学の領域ではなかなか話題にするのも難しく、わかりやすい専門書もほとんどないのが実情だ。そんな、わかりにくい世界について、「外来種をどう評価するか」という現代保全生態学の論争的な話題を切り口に、さらりと紹介してしまう、というか、さらりと紹介してしまった著者の手腕に拍手をおくりたい。

  生態学という分野は、生物の種の生存・繁殖と、環境条件との関係を扱う、ダーウィン以来の生物学の一分野である。と同時に、生態系、生物群集などという概念を使用して、地域の自然の動態についても議論をする分野でもある。種の論議と、生態系や生物群集の論議は、かならずしもわかりやすくつながっているわけではないので、 2つの領域はしばしばまったく別物のように扱われることもあったと思う。

  しかし、20世紀半ば以降、実はこの2つの分野をどのように統合的に理解するかという課題をめぐって、生態学の前線に大きな論争あるいは転換があり、古い生態学、とくに古い生態系生態学、生物群集生態学になじんできた日本の読者には、「意外」というほかないような革命的な変化が、すでに起こってしまっているのである。その転換を紹介するのにもっともよい切り口が、「外来種問題」、これに関連する「自然保護の問題」といっていいのである。 古い生態学の中心概念と思われていた生物群集、あるいは生物群集を重視する生態系は、しばしば、超個体などともよばれる有機体論ふうの全体論哲学につらぬかれていた。いわく、生物群集・生態系は、進化の産物として厳密・厳格な種の相互関係、共進化にささえられており、個々の種は、歴史的に形成されたその厳格な相互関係の結節点(ニッチなどともよばれた)に、みごとに適応する存在として位置付けられていた。攪乱されることなく、保持された「手付かずの生物群集・生態系」は、それ自体が、微妙なバランスのもとに相互適応する代替不能な種によって構成され、「遷移」という歴史法則にそって「極相」とよばれる完成形にいたる、歴史法則的な存在とみなされていたのである。 





巻末解説者の解説

岸先生’s 解説 ①  

20世紀半ば以降の生態学の歴史には様々な転換があります。20世紀前半の生態学には群集論的な思想が主流であった。その当時は、それぞれの種に焦点をあてられていたのではなく、種があつまった集団=全体。様々な種が集まったものを中心として生物を扱っていたんだ。基本的には群集というのは時代が経つにつれて超個体となるという考え方。それぞれの個体が、種が密接に関わり続けると、ある一つの種のような存在=超個体になるという考え方。 それが、少しずつ違うんじゃないかという考えが出てきて、次には生態系という概念が生まれるんだ。群集だけではなく、群集と関わる物理的な環境なども含めて考えようという考え方。生きものの種の関係だけだとうまくいかないけど、物質の循環やエネルギーの流れも含めて考えるやりかた。みんなも、食物連鎖や生態系ピラミッドとか聞いたことがあるだろ?それも全部、その考え方なんだ。その中で生態系というものは様々な生きものの絶妙なバランスで保たれているという考えも出てくる。 



岸先生’s 解説 ②

 そういう理解からすると、本来の生態系から取り出した種は、本来の生態系の種じゃない=それをもとに戻すと生態系のバランスが崩れてしまうから、もう無視していいという考え方も出てきたんだ。 例えば、少し前までは外来種=本来の生態系にいない種(ウシガエルのオタマジャクシやアメリカザリガニ)を食べたカワセミはもう日本のカワセミではない!ということを平然という人に出会ったことがある。 つまり、極端な言い方をすると日本の正しい生態系の中にいるカワセミだけど、よそから入ってきたものを食べてるカワセミは生態系から取り除かれたものを食べているから滅んでも良いという極端な考え方なんだ。そんな考え方になるのも、今まで言ってきた、生態系などの理解からすれば予想される発想だと僕は思う。 


巻末解説者

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 


巻末解説

 その理解からすれば、生態系から離脱した種(外来種となった種)は、バランスを喪失する。重要な構成種を失った生態系も、崩壊する。外来種群によって攪乱される生物群集・生態系はさまざまな混乱を生じ、崩壊することもあるということになる。中世的ともいうべきそんな生態理解のもとで自然保護を論ずれば、守るべき価値のある種は、〈在来種〉であり、〈外来種〉はなんであれ忌避されるべき存在、回復されるべき自然は、本来その場に歴史的進化史的に共存すべき在来種の作り上げる生物群集=原生自然=手つかずの自然、「外来種」は除去・拒否すべきという実践指針がうまれてしまうのは、理の当然であったというほかない。 

 植物群落の再生にあたっては、公園であれ、防災林であれ、「潜在自然植生」というまかふしぎな種がしばしば実証も無視して珍重され、同じメダカであっても、地域固有であることが遺伝子分析で推定されるものは絶滅危惧種だが、ペットショップ由来のメダカは、除去・排除の存在でしかないというような、我が国の自然保護の現場の理解も、実はそんな中世的な生態理解の産物なのだと言って、たぶんあやまりではないはずである。

  しかし、予想される通り、そんな中世的な生態理解はもはや生態学の前線の正統ではなくなり、さまざまな批判、対抗理解によっておきかえられつつある。それに対応して、自然保護の理解、「外来種」「在来種」の理解、評価も、到底一枚岩でない状況となった。「外来種はなんであれ排除せよ、より古くから固有と認定される在来種こそ保全されるべき」という常識的な自然保護論は、現代生態学の領域ではすでに四方から批判され、吟味されるべき、過去の命題となっているのである。





巻末解説者の解説  

岸先生’s 解説 ③

 例えば、池に様々な動物や植物などの生きものがいて、それぞれがそれぞれの種の相互関係の中にいる(=ニッチという特別な地位が与えられている)とする。そんな池に外来種が入ってくると、ニッチを奪われてしまう=ニッチが崩壊してしまう。=生態系が崩壊・壊れてしまう。という発想をしている人が多いよね?  テレビとかでもある池にアメリカザリガニが入ると、生態系が滅びるとか壊れるということをやたらと聞くことがあると思う。 そういう理解からすれば、生態系を壊してしまう外来生物は全部取り除かないといけないということになる。とってもわかりやすいものになるんだ。 でも、本当に生態系は崩壊するのかな?破壊するのかな?それは違うと僕は思う。崩壊や破壊ではなく、生態系が変化する。崩壊された生態系、破壊された生態系というのではなく、変化した産物という理解。 例えば、大きな池にカダヤシが入ったから生態系が崩壊する。大きな池にキショウブ(園芸種)が入ってきたから生態系が壊れる。それ本当のことなのかな? それでも、池で外来種を見つけたら、なんでも駆除する!という発想に多くの一般市民がなっている。それはおかしいという人が極端にいない時代になっている。 



巻末解説者のメモ

Memo 〜メダカ〜  

僕の活動する横浜には横浜メダカというのがいます。横浜メダカは更に細分化されて、横浜の小学校で飼育されています。しかも、他の地域のメダカと混ぜてはいけないということで、隔離されて飼育されています。僕が活動する鶴見川などには誰が捨てたのかわからないメダカがたくさんいます。僕は思うんだけど、夏に使い終わった学校のプールに横浜メダカを放流して、ドンドン増やしてそれを一斉に川に戻すと、数年で川のメダカの遺伝子の多くは横浜メダカの遺伝子に変わると僕は思っています。なんでやらないの?と聞くと、ちょっとでも混ざったら遺伝子汚染(!!)するという考え方が浸透しているから、だれもやらないのです。それを束縛しているのが、中性的な生態理解なんだとぼくは思います。  



Memo 〜中世的な生態理解〜  

中世の自然理解を示していて、この世にあるものすべて神様の設計によって作られたもので、存在するすべての生きものはつながっていて、神様の定めた位置で階層秩序で仕事をしているという考え方=自然の摂理のこと。つまり、自然の摂理から生きものを取り除くと、自然の摂理が崩壊するかもしれない。自然の摂理に他から生きものを加えると、自然が壊れる。さっき言っていた、生態系が壊れるとかとよく似ているよね。中世の世界の自然の理解を今でもしているということなんだ。



Memo 〜潜在自然植生〜

 その地域の遷移の秩序の最終形態の極相という森を構成する木々のことを言う。潜在自然植生とはありとあらゆる意味で、人間にとっても、生物にとってもいい森になるという考え方。  


巻末解説者