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③「自然という幻想」の巻末解説の 解説を翻訳者にしてもらった

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 




巻末解説 

この星に暮らす地球人たちが、特定の教条にしばられずに多自然世界を学びなおし、相互に議論をしながら選択してゆけばよいと、マリスは確信しているのだろう。目標設定の手掛かりとして最終章に紹介される7つの目安は、実践的なナチュラリストたちにとって、技術的アドバイスをはるかに超えるユニークで有用な指針となっている。 私事で恐縮だが、ここで解説を書く私は、1970〜1980年代、ドーキンスなどが開いた進化生態学の専門研究の流れに属し、日々数理モデルと格闘する研究者時代を過ごしてきた。他方では、1960年代後半の学生時代から都市の防災・自然保護の領域に強い関心があり、アカデミックキャリアの外の思索・実践の時間は、ほぼすべてを都市河川や丘陵や海岸の保全運動に費やした。三浦半島小網代の森、鶴見川の流域、そして勤務先でもあった慶應義塾大学日吉キャンパスの雑木 林等々で、防災、活用、生物多様性保全など、多元的な目標を設定した環境保全活動をつづけてきた経緯がある。

  そんな暮らしの中で、都市化、温暖化にさらされる足元の自然をどのようなヴィジョン、理論、 技術で保全してゆくか、日々の思索・実践を折々の著書にも記してきた。励ましになったのは、英語圏における非主流の研究者や市民集団の実践だった。そんな模索の途上、大きな変化がおこりはじめたことを鮮明に知らせてくれたのが本書の著者、エマ・マリスだった。驚くのは、著者マリスが呼びかける自然イメージの転換、新しい自然保護の方向が、1960年代以後の試行錯誤の実践で積み上げた私の理解と、実に相性がよいことだった。温暖化、地球規模の都市化時代の自然保護の課題は、世界共通。だから対応もまた同じ構造になると、いま私は明快に理解することができる。

  問題はそんな新たな主張を展開するマリスの本書が、日本の読者、ナチュラリストの現場にどう 受け止められるかということだろう。日本の自然保護の領域には、回復主義の頑固な教条が残る一方、「里山」という不思議な生態系への憧憬が広く共有されている。一般市民の間では、自然保護=里山保全という理解もまれではない。私自身は「里山」よりも「流域」を生態系の基本枠組として多元的な保全を目指しているので、この言葉はあまり使用しない。それでも、もし「里山」という言葉が小流域生態系を基本枠組とした水田・雑木林農業のような世界を主として示唆するのだとしたら、そこはマリスの唱導する新しい自然保護を日本列島に広げる、絶好の拠点となってゆく可能性ありと、いま私は考えるようになった。

  稲作とともにある里山は、弥生時代の昔、祖先たちが列島にイネという外来植物と、連動する 様々な外来生物を移入し、在来生態系を大改変(破壊?)して、いわば革命的につくりあげた外来生態系、多自然農業生態系だ。その里山の歴史や現状から、幻想なしに素直に学べば、日本国の未来の自然保護は一から十までマリスの主張に合致してゆくはずと、私は直感するのである。時事の話題でいえば、稲作型の外来生態系構築のために設置された「ため池」という外来型水界を対象として、いまそこに侵入している外来種を、ただ外来種だという理由で排除する興奮など、里山多自然革命の歴史にふさわしいものとは、決して言えないことは確かだろう。マリス風に言い切ってしまえば、100年、500年未来の日本列島の里山生態系には、21世紀初頭において「悪者」とされた外来生物が、穏やかに優しく共存を許され、保護される「ため池」が各所にあって良いからである。 おしまいにマリスの自然保護論の理屈っぽい部分にもふれておく。マリスの推奨する自然保護戦 略はランドスケープエコロジーを下敷きにしている。自律的な変遷を尊重される大きな自然領域(自然保護区)がコアにあり、そのまわりに人々の多彩な希望に沿って多様な保全・活用をうけるパッチ(比較的小さな土地)があり、それらが帯状あるいは線状 の土地の連なりであるコリドー(回廊)のネットワークで 連結され、総体が人と自然の共存する賑やかな多自然ガー デンになってゆくというヴィジョンだ。「過去でなく未来 に視点を向け、目標を階層化し、景域〔landscape〕の管理 をすすめることこそ、〔未来の〕自然保全の要点」(第1章) というその主張は、ランドスケープエコロジーの基本そのもの と言ってよいものだろう。 重ねての私事で恐縮だが、実はここでまた私は、驚きの符合 を知ることになった。最終章でマリ スは、保全計画の階層化 の基本単位として、ハワイ諸島の人々が伝統的に活用してき た、溶岩流で形成される小流域構造ahupuaa(アフプアア) に注目し、「多自然ガーデンは、このアフプアアのヴィジョ ンを全地球大に敷衍するもの」(第10章)と言い切った。足 もとから、流域の階層構造を経て地球に広がってゆく生きも のの賑わいに満ちた山野河海こそが、私たちの暮らしの基盤 ・背景となる自然であり、流域思考によってその多元的な保全活用を図ってゆくことが21世紀の私たちの自然保護だという思考は、実は1996年の拙著(『自然へのまなざし』〔紀伊国屋書店〕)に記した、私の実践的な思索の結論でもある。希望を託す景域として、マリスも「流域」を視野にいれているのだ。 本書が自然好きのたくさんの日本の若者たちに届き、温暖化危機の列島に優しい自然保護、多自 然ガーデニングの文化が育ってゆきますように。


巻末解説者の解説 

POINT3

ここで大切となるのが何でもかんでも外来種は駆除するべきだというのは危険な考え方なんです。そうならないために、価値観や倫理観、哲学が大切になってくるのではないかと思っています。ただ、現状は遺伝子を調べて、在来・外来とわかれば、在来種以外を何も考えずに駆除してしまうことに繋がります。実際にため池の水を全部抜くテレビ番組では、外来種としてコイを駆除して、それを放送していました。コイのようなとても長い年月日本で暮らしていた種でも外来として駆除されてしまう 現状があります。 


解説4

ウリミバエのように、人間に極端な害をあたえる外来種に関しては不妊個体などを用いて駆除することは必要だとおもうけど、何でもかんでも外来種は悪で駆除スべきだというようになると恐ろしいことになると思います。 例えば、琵琶湖のコイは在来種で、日本の他の河川のコイは外来種だと判明しましたが、琵琶湖以外のコイを全部駆除しても良いという事になってくると、恐ろしいことになると思います。