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④「外来種は本当に悪者か?」の巻末解説の解説を巻末解説者にしてもらった

巻末解説は以下の出版社のwebサイトから引用しました。 




巻末解説

  ここで、ピアスの著書を批評している筆者も、あえて派閥をいうなら、中世全体主義派ではなく、ドーキンス的な生物種のイメージとも整合する現代個体主義派と宣言しておくことにしてもよい。さまざまな政治イデオロギーも絡むかたちで、なにやら極限的な中世全体主義的自然論の横行する日本国保全生態学の領域にあって、もう理論的なやりとりはあきらめ、ひたすら実践世界において、新しい生態学の理解で地域の自然保護をすすめたいと心に決めていた筆者にとって、本書の登場は(理論的な整理に異論反論は多々ありとしても)、老いて曇天にまぶしい日差し、の ような爽快でもある。  ちなみにいえば、新しい生態理解、種の理解を、「それぞれの種に固有の......主体性において適応的な存在」とあえて上に記したのは、もちろん、今西錦司を意識してのことである。日本の生態学の系譜でいうと、筆者は、種社会の主体性を主張した、偉大なナチュラリスト、今西錦司の、勝手連的な無縁の弟子と自己規定しているからである。 1940年代、日本の今西錦司は、当時、全体論的中世的な生物群集論をひっさげてアメリカ生態学を席巻していたクレメンツ流の全体論的自然像を批判して、種の主体性を基本とする、すみわけ論という壮大な生態学的自然像の創出にかけていた。その工夫が健やかに進み、のちの今西進化論とよばれる全体論によって頓挫せずにいたら、世界の現代生態学の基本は、日本国すみわけ論の生態学から育ちあがっていたかもしれないと、筆者は本気で考えている。全体論に復帰してしまった今西すみわけ論を無念としつつ、種の現代的な理解にもとづく自然保護をこころざしていま本書にあえたこと、まさに奇遇と感じているところなのだ。 さて、稚拙な批評のしめくくりに、本書の主題に合うはずの日本生態学自然保護論にかかわるエピソードをひとつ、筆者の足元での日々の実践から紹介させていただきたい。 「流域思考」を基軸とした都市の自然再生活動を本格的にスタートさせた1980年代末のこと、保全活動の中心地でもあった鶴見川源流の、事故で湧水の枯渇した細流から、私たちはアブラハヤ(淡水魚の一種)の地域集団数十個体を2キロほど離れた近隣の谷に移動させ、湧水復活後、もとの谷にもどしたことがあった。予期した通りというべきか、新聞やテレビでも報道されたこの活動を目にした某保全生物学研究者から、間髪をおかず激しい抗議がおくられてきた。いわく、「固有の生息地からの集団の移動は、国内外来集団を生み出すことになるので認められない。ましてや湧水回復後に復帰させるというのは、環境改変後の地域への移植であり、 また近隣とはいえ別地域の個体群との混合、遺伝子汚染(!)の恐れがあり、さらにさらに認められない。貴殿は生態学者の風上にもおくわけにゆかない。そのアブラハヤ小集団は、湧水枯渇時に、元の生息地において全滅させるのが、保全生態学的に適切であった」 あれからもう30年になろうとしているのだが、いま筆者の自然保護の現場に、直接、間接に登場する日本国保全生態学者たち、あるいはそれに同伴する自然保護活動家たちの主張は、なお同じ中世世界にとどまりつづけているように思われて、ならないのである。 人類活動における温暖化、生息地破壊・改変の現実の中で、私たちの未来が目指すべき自然は、中世全体主義的な生態学理解が空想する復古中世的な自然ではなく、だれが在来で外来か、 という神学的な論議をすることも時には不可能になってゆくような、人新世(Anthropocene)的激動の〈新しい野生=在来・外来混在の野生〉と格闘しながら、安全、生物多様性、そして生態系サービス充実の管理可能な生態系をめざしてゆくほかないのではないか。その実践、判断をささえる、基礎生態学の再建、あらたなファンクラブの創出が、実はいま我が国の自然保護領域における最大の課題なのではないだろうか。 本書を契機として世界の関連著書にふれ、自然保護の課題から現代生態学の基本理解の世界にいたる若い生態学者たち、自然保護の実践の現場から湧きいでよ。そう願うこと、しきりである。   




巻末解説者のメモ

Memo〜 すみわけ論〜  

今西錦司は種の社会というのが一部重複(あわさる)しながら、出来る限りかぶらないように時間をずらしたり、暮らしている空間を変えたりしながら暮らしているとするのが「すみわけ論」で、たまたま人間がその空間だけをみると、単純な複合社会になるということ。 例えば、生きものたちの暮らしを記述する便利な言葉の一つに「すみわけ」という表現がある。 鳥は空に、獣は地に、そして魚は水に、すみわける。 同じ水中のハゼも、たとえばヨシノボリは淡水に、マハゼは汽水にすみわける。水辺の鳥も、コサギは昼、ゴイサギは夜とすみわける。もちろん植物も、コナラは平地、ミズナラは山地の雑木林にすみわける。今西錦司の〈すみわけ論〉の圧倒的な影響もあって、すみわけ、という言葉は、日本のナチュラリストたちの日常用語の一つになった。 抽象的に規定すれば、〈生存·繁殖に関連する諸条件が種ごとに異なることをすみわけと呼ぶ〉などという定義も可能だろう。この場合、生存·繁殖にかかわる諸条件 (すみ場所、食物、繁殖場所、活動時間など)のセットをニッチ(生態的地位)とよび、すみわけ、と呼んでも同じである。ニッチが種ごとに異なることをさす。  


Memo〜 遺伝子汚染〜  

「遺伝子汚染」という恐ろしい言葉も度々耳にしたりすることもあり、恐ろしいことです。遺伝子が混ざる=人種が混ざると汚染=良くないことになる という理論はとても恐ろしいものです。系統の違うものを混ぜると汚いという根拠のよくわからない哲学が今の日本では広がっている恐ろしさもあります。 更に恐ろしいことに、この原理が人間にも適応され、外国人の人権侵害をおこなっても良いというハードルが下がることまで考えるのは、私の心配しすぎでしょうか。 現実にナチスドイツの時代の記録があります。